木村 武山 「旭日双鶴」 Buzan Kimura
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- 作家名木村 武山 (Buzan Kimura)
- 作品名旭日双鶴
- 年 代
- 技 法日本画 (絹本,彩色)
- サイズ126.5×42cm
- レゾネ
- 体 裁軸装
- 備 考※売約済※ サイン/印/共箱
- この作品は売約済みまたは販売済みです。
木村 武山 (きむら ぶさん) 1876~1942
代表的な大作として,東伏見宮御殿御襖絵「群鶴之図」久迩宮御殿御襖絵「菊花之図」聖徳記念絵画館「明治天皇徳川家行幸図」
官弊大社長田神社格天井「百花百草」高野山金剛峯寺金堂内面壁画等がある。特記さるべき日本美術院の功労者である。
1876年 茨城県笠間市に旧笠間藩士・木村信義の長男として生まれる。本名は信太郎。父は廃藩後に帰農した後,
笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となる程の実業家であった。
1891年 東京美術学校普通科に編入,ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け,以後画家としての人生を観山と共に
歩むことになる。またこの頃川端玉章の画塾・天真社で学ぶ。
1896年 卒業後も同校に留まり,日本画研究科へ進む / 日本絵画協会第一回展に「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受ける。
1897年 平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。
1898年 日本美術院に参加,最初は副員だったがのち正員となる。
一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入隊,後の日露戦役には応召,陸軍歩兵中尉に進む。
1906年 観山の推挙により岡倉らの五浦移転に一家をあげて同行する。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており,
後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めた。
1914年 大観・観山らと共に日本美術院を再興。経営者・評議員・同人の三役を兼ね,以後中心的存在として院の経営に尽力した。
1937年 脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養,病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り「左武山」の異名をとる。
1942年 喘息のため死去。