恩地 孝四郎 「『氷島』の著者 萩原朔太郎像」 Koshiro Onchi
- 管理No.16-00431
- 作家名恩地 孝四郎 (Koshiro Onchi)
- 作品名『氷島』の著者 萩原朔太郎像 (Author of Hyoto ''Portrait of Hagiwara Sakutaro'' printed by Hirai Koichi)
- 年 代1943年
- 技 法木版画 (Woodblock)
- サイズ53×41.8cm(S)
- レゾネ形象社 No.224
- 体 裁額装
- 備 考左下に印譜/裏面右下にスタンプ/ED.20部/「恩地孝四郎展図録 東近美他 2016年」P166-2(158ページ)/1955年平井孝一による摺り/コンディション良好/73.5×62.5cm(F)
恩地 孝四郎 (おんち こうしろう) 1891~1955
恩地孝四郎 平井孝一摺りや増し摺りについて
恩地孝四郎の没後,遺族の依頼により残されていた版木を使い浮世絵摺師,平井孝一が摺った後摺りがあり
これを「平井摺り」と言い作品の裏に平井摺りを意味するスタンプが押されています。
平井孝一によってなされた後摺り(メモリアル・エディション)は10作品ある様です。
後摺りには平井摺りの他,米田稔(米田摺り)や子息・恩地邦郎(邦郎摺り)によるものがあります。
また,恩地孝四郎の存命中に恩地本人ないし関野凖一郎が摺った「増し摺り」も存在します。
「増し刷り」は戦後,W.ハーネット等の進駐軍のコレクターの要望に応えて摺った物がこれに該当します。
この『氷島』の著者 萩原朔太郎像の場合,恩地本人が戦前と戦後(増し摺り)に摺った物が数部,関野凖一郎による増し摺りが20部,平井孝一による平井摺りが20部存在します。
東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家,装幀家,写真家,詩人
創作版画の先駆者のひとりであり,日本の抽象絵画の創始者とされている
前衛的な表現を用いて,日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は非常に高く評価されている
1891年 7月2日,東京府南豊島郡淀橋町元柏木村(現,新宿北新宿)に生まれる
1904年 番町小学校卒業 / 父の希望で医者になるべく独逸協会中学校へ入学
1909年 独逸協会中学校卒業 / 赤坂溜池の白馬会葵橋洋画研究所に通う
1910年 近くに住む竹久夢二をしばしば訪ね強い影響を受ける / 東京美術学校西洋画科予備科に入学
1911年 東京美術学校彫刻科彫塑部予備科へ転科するが,数ヶ月後に退学 / 洛陽堂より竹久夢二らと『都会スケッチ』を出版
1912年 東京美術学校西洋画科予備科に再入学 / 抽象的作風の作品を制作する
1913年 竹久夢二画文集『どんたく』の装幀をする / 友人の田中恭吉,藤森静雄と共に木版画の制作を始める
1914年 木版画の制作に熱中し,田中・藤森と詩と版画の同人誌『月映』を3月から7月にかけて自摺私輯6册を刊行する
9月より田中,藤森と洛陽堂を版元として『月映』第1,2,3輯を刊行 / 日本橋にあった 竹久夢二経営の港屋で「月映小品展」を開催
北原白秋,室生犀星,萩原朔太郎らと交友が始まる
1915年 『月映』第4,5,6輯を刊行 / 東京美術学校西洋画科を中退
1916年 小林のぶと結婚 / 室生犀星,萩原朔太郎の同人誌『感情』が創刊され装幀を担当 / 第2号から版画や詩を発表する
1917年 長女,三保子誕生 / 萩原朔太郎詩集『月に吠える』が感情詩社 から刊行され
装幀・挿画を担当し,故田中恭吉の遺作を挿入 / 処女版画集『幸福』を出版
1918年 『感情』第20号に「恩地孝四郎抒情画集」が特集される
山本鼎,戸張孤雁,織田一磨らの発起した日本創作版画協会の結成に参加
室生犀 星詩集『愛の詩集』(感情詩社)の装幀・挿画を担当する
1919年 第一回日本創作版画協会展(日本橋三越)に出品
1920年 長男,邦郎が誕生 / 神田,兜屋画堂にて個展を開催(油彩,素描など60点を展示
1921年 総合芸術誌『内在』を大槻憲二,藤森静雄と創刊 / 次男,昌郎が誕生
1922年 『詩と版画』(アルス社)の編集に協力するが,1号のみで休刊
1923年 萬鉄五郎の円鳥会の結成に参加 / 『詩と版画』が再刊され,編集及び執筆をする
1924年 二女,暁子が誕生 / 横浜鶴見花月園に少女歌劇部主任として約1年間勤務 / 自作脚本の演出,舞台装置,作曲などを担当する
1925年 この頃よりアルス社などの装幀の仕事を多く手掛ける
1927年 詩と版画誌『港』(沢田伊四郎編集刊行)第3号より同人として参加編集に協力『港』を改題し,『風』を創刊
版画や詩文を発表する / この年より創作版画の受理を認めた第8回帝展に木版画「幼女浴後」が入選 以後,第10回まで連続入選
1928年 大阪朝日新聞社企画「北原白秋の柳川への空の旅」に同行し初めて飛行機に乗る
この時の感動を後年『飛行官能』として発表
川上澄生,前川千帆,藤森静雄,深沢索一,諏訪兼紀,平塚運一,逸見享と8人で卓上社を結成
第1回展を日本橋丸善で開催 / 『近代劇全集』(第一書房)『白秋全集』(アルス社)などで装幀家としての地位を確立する
1929年 中島重太郎主宰の創作版画倶楽部より「新東京百景創作版画」の頒布が始まり
前年結成の卓上社の同人が分担して制作する(~1932年) / 『風』が再刊され編集,執筆,作品発表をする
再刊第1輯は<恩地孝四郎作品小品> / 創作版画倶楽部より『版画CLUB』が創刊され,編輯同人となる
1930年 第11回帝展に「双貌」が落選,以後出品せず
1931年 日本創作版画協会,洋風版画協会,及び無所属作家らが大同団結をはかり
日本版画協会が設立され,常任委員となる(会長は,岡田三郎助 会員42名)
第一回展が日本橋三越で開催され出品する(以後,同会の活動に生涯尽力する)
1934年 長谷川潔らの尽力により,パリにて日本版画協会主催による
「日本現代版画展」が装飾美術館内パピヨンド・マルサン会場にて開催され「化粧」など7 点を出品
詩画集『海の童話』(版画荘) / 詩,写真,版画による創作集『飛行官能』(版画荘)を出版
1935年 志茂太郎と愛書誌『書窓』を編集刊行(アオイ書房) 1944年終刊
童話歌劇小曲集『ゆめ』(新生堂) / 版画詩文集『季節標』(アオイ書房)出版 / 「ポエム」連作が始まる
1936年 第11回国画会展に「廟門」などを出品,会員となる 以後,版画部会員として出品を続けた
『竹久夢二遺作集』(アオイ書房)を有島生馬と共編
1937年 日本版画協会主催による「日本現代版画展」がサンフランシスコなどアメリカ・ヨーロッパ各地を巡回し,出品する
1938年 日本版画協会より「新日本百景版画」の頒布が始まり,恩地は「台北東門」と「雲仙一景(1940年)」を制作する
1939年 若い版画家のための研究会「一木会」を自宅にて毎月第一木曜日に開く / 戦後まで続けられ,多くの才能を育てた
1942年 随筆,写真集『博物志』(玄光社) 随筆集『工房雑記』(興風館)を出版
1943年 詩と版画集『蟲・魚・介』(アオイ書房十周年記念書窓版画帖十連聚其八)出版
日本版画奉公会が結成され,理事長となる / 随筆集『草・蟲・旅』(龍星閣)を出版
1945年 終戦を目前に8月6日,次男昌郎が戦死
1946年 自作を含む詞華集『日本の花』を富岳本社より編集出版する
この頃から進駐軍将校として来日したアメリカ人コレクターらが恩地作品を積極的に買い始める。
1947年 詞華集『人体頌』を富岳本社より編集出版する
1949年 博報堂に装幀相談所が開設され副所長になる(後に所長となる)
第一回日本アンデパンダン展(東京都美術館,読売新聞社主催)に出品
1950年 自作を含む,一木会豆版画帖『博物譜』(青園荘私家版)を編集,出版する
1951年 第一回サンパウロ・ビエンナーレに「リリックNo.11 回想の中で」を出品
1952年 第二回ルガノ国際版画展にリリック連作を出品
前後して第一回日本国際美術展など内外の展覧会に出品が毎年続く / 『本の美術』(誠文堂新光社)を出版
1953年 第五回装幀美術展(日本橋三越)で『萩原朔太郎全詩集』が受賞
また,特別陳列として「恩地孝四郎装本三十年回顧展」が開催される
長谷川三郎,山口長男,吉原治良,瀧口修造,植村鷹千代らと日本アブストラクト・アート・クラブを結成
国際アートクラブ(本部はローマ)の日本本部(通称アートクラブ)の設立に岡本太郎らと尽力する
『日本の現代版画』(創元社)を出版 / 国立近代美術館主催「抽象と幻想展」に出品
1954年 国立近代美術館「近代の肖像画展」に「萩原朔太郎像」などを出品したのをはじめ多くの展覧会に出品する
国画会秋季展(日本橋三越)に「自分の死貌」を出品
長年出品を続けた日本版画協会,国画会への出品はこの年が最後となる
1955年 6月3日,逝去 享年63 / 目黒の高福院に葬られる
6月中央公論社画廊にて「恩地孝四郎版画小品展」 / 9月ナビス画廊にて「恩地孝四郎遺作展」(主催アートクラブ)が開催される
10月遺稿詩画集『日本の憂愁』が沢田伊四郎編集により龍星閣より出版される