武者小路 実篤 「南瓜 馬鈴薯図」 Saneatsu Mushanokoji
- 管理No.※Sold※
- 作家名武者小路 実篤 (Saneatsu Mushanokoji)
- 作品名南瓜 馬鈴薯図
- 年 代
- 技 法木版画 (Woodblock)
- サイズ25×49cm(I)
- レゾネ
- 体 裁額装
- 備 考※売約済※
- この作品は売約済みまたは販売済みです。
武者小路 実篤 (むしゃのこうじ さねあつ) 1885~1976
1885年5月12日-1976年4月9日
日本の小説家。姓の武者小路は元来「むしゃのこうじ」と読むが,実篤自身は「むしゃこうじ」と名乗っていた。
しかし,むしゃのこうじを誤りだと糺すことはなかったという。仲間からは「武者」という愛称で呼ばれた。位階は従三位。文化勲章受章。
授与された称号には名誉都民などがある。日本芸術院会員。
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に,藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に子爵・武者小路実世の第8子として生まれた
(分家したのが江戸時代で,本家の歴史は奈良時代以前にまでさかのぼる)。2歳の時に父親が死去。子供時代は作文が苦手であった。
学習院初等科,中等学科,高等学科を経て,1906年に東京帝国大学社会学科に入学。1907年,学習院の時代から同級生であった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。
同年,東大を中退。1908年,回覧雑誌「望野」を創刊。1910年には志賀直哉,有島武郎,有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。
これに因んで白樺派と呼ばれる。トルストイに傾倒した。また,白樺派の思想的な支柱であった。
理想的な調和社会・階級闘争の無い世界(ユートピア)の実現を目指して,1918年に宮崎県児湯郡木城村(現・児湯郡木城町)に「新しき村」を建設したが,1938年にダム建設により村の大半が水没したため,1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存する(村民になるには年齢は原則として40歳以下の年齢制限がある)。
但し,実篤は1924年に離村し,村外会員(村に居住せず会費を納める)となり“村民”であったのは僅か6年である。
「新しき村」のHPなどでは,実篤が村外会員になり文筆活動をした事を好意的に受け止めており,村民活動が離村後の執筆に多大な影響を及ぼしたとされ,明確には表現されていないが,第三者的に見れば「象徴」「広告塔」的役割を結果的に今でも担っている感がある。
1946年には貴族院議員に就任。1948年には主幹として『心』を創刊し没する直前まで関った。1951年に文化勲章受章。
1976年4月9日,東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院にて死去,享年90歳。
実篤は,白樺派の思想代名詞的存在であり,理想主義・空想社会主義的行動(前述の村建設など)が現実離れしているとして揶揄の対象とする人もいた。また,上流階級の子弟にありがちな気紛れで無責任とも取れる言動(自ら提唱した新しき村を僅か6年で離村している)を批判された事もある。確固たる思想的裏付けが無く,近視眼的な理想主義・現実離れな言動で,軽率であるとの懐疑的な見方も一部には存在する。 ただしその作品は,その思想的背景に依らず現代に至るまで広く読まれており,一般には上記の理想主義的行動よりも「友情」「愛と死」等の代表作を生んだ。近代日本における代表的作家の一人としての知名度の方が遥かに高い。全集は小学館より全18巻で刊行されている。また,晩年盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名である(漫画家,みなもと太郎によると「昭和40年代には日本中の家に色紙があった」という)