橋本 関雪 「松柏不老図」 Kansetsu Hashimoto
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- 作家名橋本 関雪 (Kansetsu Hashimoto)
- 作品名松柏不老図
- 年 代
- 技 法日本画 (紙本,彩色)
- サイズ43.5×47cm
- レゾネ
- 体 裁額装
- 備 考※売約済※
- この作品は売約済みまたは販売済みです。
橋本 関雪 (はしもと かんせつ) 1883年~1945年
橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。父・海関は橋本文水(播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。本名は貫一。関雪というのは画号であり藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見,その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字,雪は白の字。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたという。果たして翌年,兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。父から漢学を学び1903年,竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年,文展で二等賞,翌年も同じ。1916年と翌年,特選を受賞。帝展審査員を務め1934年,帝室技芸員,1935年,帝国美術院会員,1937年,帝国芸術院会員,1940年,建仁寺襖絵を製作。中国古典に精通したことでも知られ,たびたび中国へ渡った。京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み,白沙村人と別号した。白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。庭を営むことが多く大津に走井居,明石に蟹紅鱸白荘,宝塚に冬花庵という別邸を造営した。また,古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。1945年に没し画号の由来となった逢坂の関にある,別邸走井居(月心寺)の墓地に眠る。
1883年 11月10日,現神戸市に生まれる
1895年 四条派の画家に入門
1903年 京都に出て,光村利藻の紹介により竹内栖鳳の竹杖会に入門
1904年 2月,結婚
1908年 第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」を出品入選
1913年 京都に移り岡崎徳成橋畔に住む。10月,第7回文展二科に「遅日」を出品,2等賞を受ける
1914年 第8回文展で「南国」が2等賞を受ける
1915年 第9回文展で「猟」が2等賞を受ける。南禅寺山内金地院に移る
1916年 第10回文展で「寒山拾得」が初めて特選となる。京都市左京区浄土寺石橋町に白沙村荘が完成し移る
1917年 第11回文展に「傀雲林」を出品,特選となる
1918年 第12回文展に「木蘭」を出品,特選となる
1919年 第1回帝展の審査委員をつとめる
1929年 パリ日本美術展に「本蘭詩」「浦湘」を出品,「浦湘」がフランス政府買い上げとなる
第10回帝展の審査委員をつとめ「長恨歌」を出品。この作品は,ドイツ日本美術展に出品される
1929年 パリで関催された日本美術展の功によりシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与される
1939年 ニューョーク万国博に「霜猿」を出品
1940年 かねて制作中の京都建仁寺方丈の襖絵60面が完成
1945年 2月26日,狭心症の発作により死去