梅原 龍三郎 「裸婦」 Ryuzaburo Umehara
- 管理No.※Sold※
- 作家名梅原 龍三郎 (Ryuzaburo Umehara)
- 作品名裸婦 (Nude)
- 年 代1977年
- 技 法リトグラフ (Lithograph)
- サイズ68×57.5cm(I)
- レゾネ
- 体 裁額装
- 備 考※売約済※ サイン/ED.175部
- この作品は売約済みまたは販売済みです。
梅原 龍三郎 (うめはら りゅうざぶろう) 1888~1986
大正から昭和にかけての洋画家である。京都府京都市下京区の生まれ。左利き。1914年(大正3年)までは,名を良三郎と名乗るが,この名を本名とする説と,出生時に龍三郎と名付けられたが良三郎に改名していたとする説がある。画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ,自由奔放と評される。第二次大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨した。晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエが,山梨県北杜市の清春芸術村に移築され公開されている。
京都府京都市下京区に生まれる。生家は染物問屋であった。
京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)を中退し,伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後,浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現在の関西美術院)に入る。
同時期に安井曾太郎も学んでいた。
1888年 京都府京都市下京区に生まれる
1908年 田中喜作(後に美術史家となる)と共にフランスに留学。パリに滞在しアカデミー・ジュリアンに通った
1909年 ピエール・オーギュスト・ルノワールの指導を受ける機会を得た
知人の有島生馬を通じて,1910年にはルノワールや,パリの芸術について雑誌「白樺」に寄稿している
1913年 帰国し,東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社の主催で開催
この際に,白樺社同人の武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦との知遇を得た
1914年 二科会の設立に関わる。同年,洋画家・亀岡崇の妹艶子と結婚
1915年 長女 紅良(嶋田紅良)
1918年 長男 梅原成四が生まれた
1920年 再び渡仏(前年に死去した,ルノワールの弔問のためでもあったと言う)
1922年 春陽会の設立に参加。その後,春陽会を去る
1925年 土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し,国画創作協会洋画部を設置
1928年 国画創作協会が解散した際に,洋画部が独立し「国画会」となった
1935年 帝国美術院会員となる
1937年 拡充された帝国芸術院(現,日本芸術院)会員となる
1944年 帝室技芸員,東京美術学校(現,東京芸術大学)教授となる
1952年 東京芸術大学教授を辞任し,渡欧。ベネチア・ビエンナーレの国際審査員を務めた
1952年 文化勲章受章
1953年 軽井沢にアトリエを設けた
1957年 日本芸術院会員を辞任。様々な役職を辞した後は,渡欧を繰り返し自由な立場から制作に励んだ
少年時代より良きライバルであった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め
「日本洋画壇の双璧」と称された。ヨーロッパで学んだ油彩画に,桃山美術や琳派・南画といった
日本の伝統的な美術を自由に取り入れ,絢爛たる色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開
1986年 死去 享年98歳