前田 青邨 「真鶴沖」 Seison Maeda
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- 作家名前田 青邨 (Seison Maeda)
- 作品名真鶴沖
- 年 代
- 技 法リトグラフ (Lithograph)
- サイズ56×69.8cm(I)
- レゾネ
- 体 裁額装
- 備 考※売約済※ 落款と印共に版上/ED.150部/「平山郁夫」監修シール
- この作品は売約済みまたは販売済みです。
前田 青邨 (まえだ せいそん) 1885~1977
1885年 岐阜県恵那郡中津川村(現在の中津川市)に,父前田常吉・母たかの次男として生まれる。本名:廉造(れんぞう)
1891年 中津川尋常高等小学校に入学。図画が得意で,算術を苦手とする生徒だった
1897年 中津川尋常高等小学校卒業
1898年 上京し,叔父の営む本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿する。母死去
京華中学校に入学するが,数ヶ月後に血痰が出,静岡県吉原の眼科医宅で2ヶ月ほど療養する
1899年 京華中学校を中途退学し,郷里中津川に帰郷。母校の補習科へ通学する
1901年 絵に専心する決意を固め,再び上京。塾頭格に二年先輩の小林古径がいた
従兄のつてで尾崎紅葉の紹介を得,牛込天神町の梶田半古の塾に内弟子として入る
1902年 出品に際し,師半古から「青邨」の雅号をもらう。第12回日本絵画協会
第7回日本美術院連合絵画共進会に「金子家忠」を出品,3等褒状を受ける。日本画会に入会
1903年 國學院大学の聴講生となり,古典文学を学ぶ
1910年 国画玉成会幹事となる。この頃,郷里中津川の南林寺格天井に絵を描く
1911年 11月,荻江節家元荻江露章の妹,佐橋すゑと結婚
1914年 再興日本美術院の同人に推挙される
1918年 大阪高島屋で初の個展開催。日本美術院評議員に選出される
1922年 日本美術院留学生として,西洋美術研究のため小林古径と共に約1年間渡欧しローマ・フィレンツェ・パリに滞在
1930年 「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞。日本美術院経営者に推挙される
1935年 帝国美術院会員に任命される
1937年 帝国芸術院会員に任命される
1944年 帝室技芸員に任命される
1945年 郷里中津川に疎開。終戦後北鎌倉の自宅に戻る
1950年 東京藝術大学教授となる。文化財保護委員会専門審議会委員
1951年 東京藝術大学日本画科主任教授に就任
1955年 文化勲章受賞。中津川市名誉市民(第1号)となる
1959年 東京藝術大学日本画科主任教授を定年退職し,同大学名誉教授となる
1966年 中津川市に青邨記念館が建設される
1967年 法隆寺金堂壁画再現事業の総監修に安田靫彦(ゆきひこ)とともに就任
前田班は「十号大壁(薬師浄土)」「三号小壁(観音菩薩)」「十二号小壁(十一面観音)」の三面を担当し制作
1970年 皇居新宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」の壁画として,昭和30年に制作した
「石橋」に加筆し,新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作
1972年 高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される
1974年 東京国立博物館にて内覧される。春,高松塚古墳壁画模写が完成
1977年 鎌倉で逝去,享年92歳。戒名「画禅院青邨大居士」