棟方 志功 「柳緑花紅図」 Shiko Munakata
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- 作家名棟方 志功 (Shiko Munakata)
- 作品名柳緑花紅図
- 年 代1999年
- 技 法リトグラフ (Lithograph)
- サイズ46.5×31cm(I)
- レゾネ
- 体 裁額装
- 備 考※売約済※ ED.240部/石版画:31版31色/用紙:越前紙鳥の子弐号/「棟方板画館」監修
- この作品は売約済みまたは販売済みです。
棟方 志功 (むなかた しこう) 1903~1975
棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ,国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ,軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中,富山県に疎開して浄土真宗にふれ,『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名である。
1903年 刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため,囲炉裏の煤で眼を病み,
以来極度の近視となる。少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し,「ゴッホになる」と芸術家を目指した
又,青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ
1924年 東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが,落選が続いた
1928年 第9回帝展に『雑園』(油絵)を出品し,入選する
1930年 文化学院で美術教師を務める
1932年 日本版画協会会員となる
1934年 佐藤一英の「大和し美し」を読んで感動,制作のきっかけとなる
1936年 国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり,これを機に柳宗悦,河井寛次郎ら
民芸運動の人々と交流する様になり,以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる
1945年 戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。志功は,この地の自然をこよなく愛した
1946年 富山県福光町栄町に住居を建て,自宅を「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付け
また,谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑(あいぜんえん)」とも呼ぶ
1956年 ヴェネツィア・ビエンナーレに『湧然する女者達々』などを出品し,日本人として版画部門で初の国際版画大賞受賞
1969年 青森市から名誉市民賞を授与され,翌年には文化勲章受章
1975年 9月13日,東京にて永眠。同日付で贈従三位
青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた“静眠碑”と名付けられた墓がある